繰り言 (くりごと)

2-831)城址の桜

醍醐寺の桜は、太閤さんの花見として知られている。大層、由緒ある桜なのだ。
慶長3年3月15日(1598年4月20日)に豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴である。
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演・准后は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を催させたともいう。秀吉はこの約半年後に没する。

オジサンの飲み会で、他の各地の桜の由緒、いわれを調べるよう下命されていたので、ここに報告する。

吉野の桜
吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現(ざおうごんげん)の神木であるとされたことによる。
修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、金峰山で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であった。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった

ほほー。

続いて弘前城祉の桜
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1600年(慶長5年)津軽為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より2,000石の加増を受け47,000石の弘前藩が成立。
1810年(文化7年) 9代藩主津軽寧親により、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(天守)が建てられた。
1894年(明治27年) 旧藩主・津軽氏が城跡を市民公園として一般開放。
1898年(明治31年) 三の丸が陸軍兵器支廠(のち第8師団兵器部)用地となる。
1903年(明治36年) これ以降桜が植えられ、桜の名所となる
 

あれあれ、明治36年、陸軍かよ。
では、高田城址の桜。
陸軍の入城時に3000本を超す桜(染井吉野)が植栽され、現在でも日本三大夜桜のひとつに数えられる。残された堀には失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われ、現在では外堀の大半が蓮に覆われている。水質問題などから商品作物としての蓮根栽培は中絶したが、開花時期には毎年「蓮まつり」が開催されている。

高田も陸軍。

次ぎは高遠城址の桜
明治4年、廃藩置県によって高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われたため、この場所は荒地となっていた。明治9年これを見かねた旧藩士たちは城跡に桜を植樹し、城下町にあった門を移すなどして公園として整備した。昭和11年、高遠閣が完成。高遠閣は観光客の休憩所、案内所として使用されているが、元々は地域の集会所として作られたものであった。昭和35年、コヒガンザクラは長野県の天然記念物に指定された。昭和53年より花見のシーズンのみ有料となった。

こちらは明治9年、旧藩士たちによる植樹。
これらも歴史なのだが、何処も、醍醐寺、吉野山ほどではない。明治期のことだった。

上田城祉の桜は、まとめにくいのでリンクに止める。上田城址の桜
報告終わり。

調べないで、「さぞかし」と歴史のロマンを想像していたほうが良かったかもね。
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by ikuohasegawa | 2012-06-11 05:02 | 繰り言 (くりごと) | Comments(0)

十や十五連休なんて目ではない。三百六十五連休が始まった私。


by ikuohasegawa