記事末に『おもんpaかる』とある。
漢字の『慮る』と表記されたものは「おもんbaかる」と読んで いたので、『paかる』に驚いた。
急いで新明解。
日常で使うことはないが、時代小説などで使われそうだ。
でも 「拙者が、おもんpaかるに・・・」などと武士が言うのを聞いたら笑っていただろうが、笑ってはいけない。正しいのだ。一つ勉強になった。
でも、「拙者が、おもんpaかるに・・・」は三谷幸喜の時代劇みたいだ。
『はかる』が『paかる』に変化したのだけれど、考えてみればそういう例は幾つもあった。『ふん(分』が『ぷん』、『はい(杯』が『ぱい』『敗』『輩』『肺』『廃』・・・・幾つでもあった。ハ行の読みはパ行に変化するのだろう。
再度、記事。
②佐藤さんの発言を “「自己責任」と批判的な意見” に対する反対意見として紹介しているが、記者の引用ミスもしくは要約ミス。この部分は反対意見になっていない。
不謹慎を承知で書く
③非業の結末を迎えてしまった後藤さんは、おそらく、おもんばかって=『何かを計画決行する時に後への影響、周囲との関係や先例など、すべてのケース・可能性を考え合わせて』いたと思うのだけれど、この可能性の中には死ぬこともある は含まれていたのだろうか。
自己責任ということではなく、出かけていくときの〝覚悟〟の有無の確認です。
それにしても、申し合わせたように全く報道されない湯川さんはどういう人だったのだろうか。
は氏のご意見に、ちと反論。
①佐藤さんは、「自己責任」とした批判に対して反論しているわけではありません。「後藤さんの自己責任である」ということは、当然、佐藤さんも承知しています。そのうえで、「後藤さんが、無事生還することに自信もあり、裏付けもあったはずだ」という気遣いを見せているのであって、そのことが「おもんぱかる」の言葉遣いになったものと思います。
②そもそもが、「自己責任」とした批判に対する反論ではありませんから、反対意見でないのは当然です。
③後藤さんは、出国前に「何が起こっても自分の責任です。でも、必ず生きて帰ります」と語っています。その言葉の裏には「死」というものも当然含まれていたはずですし、無論、その覚悟もあったはずです。ただ、覚悟の程はどうなのかと言えば、過去に何回も往復している経験からくるわずかな油断が、果たしてなかったかという気もするのです。
しかし、今となっては何を言っても詮無いことです。
前提として、記者がおかしいというのが私の論旨です。
①おもんぱかるは佐藤さんの言葉ではなく、記者の文です。
②意見一致。反論で無いのに記者が反論であるかの様に、『批判があるが、』とつないだ文がおかしい。ということです。
①の「おもんぱかった」は、当然、佐藤さんのことを言った記者の文に決まっています。
意味が少しずれるかもしれませんが、要するに「配慮を示した」ということだと思います。自身のことなら、普通そんな言い方はしませんからね。