昨二十日は終日、雨。とはいうものの真冬の寒さではない。
書店で平積みされていた中公文庫を読み始めた。
『やちまた』と本居宣長の肖像。妙な組み合わせだ。というのが初見の感想。
『やちまた』とくれば、関東の人は千葉の八街を思い浮かべる。
「やちまたの落花生」は知ってい るが、「やちまたの宣長」は思い付かない。
この本の『やちまた』は、
宣長の長男で盲目の文法学者・本居春庭の生涯を辿る評伝。春庭は日本語の動詞活用を研究し『詞八衢(ことばのやちまた)』を著し国語学史上に不滅の業績を残した。
このやちまたである。
やちまた【八衢】道が八つに分かれている所。また、道がいくつにも分かれている所。分かれ道が多くて迷いやすいことにたとえる。
上巻巻末の松永伍一氏の書評
本書が春庭の伝記であり、足立氏の40年間の伝記であり、『詞の八衢』という本そのものの伝記でもあるとして、「三つの時間がより合わさって一本の綱になった『総合的伝記』である」
自伝であり、春庭の評伝であり、『詞の八衢』の探究書でもあるというのが、本書を「文学」たらしめているゆえんかもしれません。いずれが経糸であり緯糸なのか、いつか渾然一体となり作品を織り成します。それは、文字通り「やちまた」としか評することのできないものです。
当然のごとく父本居宣長に関する記述から始まる。
宣長には五人の子があり、長男は春庭、次男は春村、長女は飛騨、次女は美濃、三女は能登と名付けた。
私は岐阜の出身なのだけど、宣長は春と岐阜が好きだったのかなあ。
とまあ、今回は『やちまた』の解明と宣長の子らの名の報告で、お仕舞いにするが多分読み通せるだろう。
小林秀雄の『本居宣長』は11年をかけた晩年の名作だそうだが、私は11年どころか40年を経ても読み終えていない。
正直言って「何言ってるか解らない」
俺に解る文章を書けと口にして中断。難解という世間の評価が救いだ。
が、『やちまた』は作者足立巻一氏の分身たる青年が、引き回し役として登場するから読みやすい。
加えてその彼は、宣長の奥墓に参り
『一首読みたいという気持ちが動いた。しかしどうにもまとまらない。やめた。とうてい、その心境には思い至れない』
とか、松坂で鈴屋の見学を終たあと
『わたしは腸※と日のあるうちから焼き鳥屋にはいり、スズメばかりをたらふく食って酔いつぶれた』 (※腸とは友人の俳号 )
と 、親しみやすい。
これなら、読み通せるような気がする。
八街という名称(八街市Hpより)
明治新政府の政策により徳川幕府の放牧地であった小金・佐倉両牧の開墾に際し、開墾局が開墾に着手したおおよその順序によって命名された字名によるものです。これらの字名は、
初富(鎌ヶ谷市)、
二和
三咲(船橋市)
豊四季(柏市)、
五香
六実(松戸市)、
七栄(富里市)、
八街
九美上(香取市【旧:佐原市】)、
十倉(富里市)、
十余一(白井市)、
十余二(柏市)、
十余三(成田市)で、明治5年11月2日にそれぞれの村が誕生しました。
この8番目に開墾された地が現在の八街市の始まりです。
なるほど。