2-400) 断捨離あれこれ
2011年 01月 18日
物を減らすといえば、今流行の「断捨離」
不要なモノを断ち、捨てることで、モノから離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというものだ。と思ったら、
「断捨離は単なる整理術ではない。ヨガの考え方「断業」「捨行」「離行」が基になっていて、身の回りをスッキリさせることで、心の混乱も整理し前向きな自分に生まれ変わるのだ」という。
そんな生まれ変わることまでは望まないが、物を捨てることは自分が少し変ることかもしれないとは思いはじめた。
これまで、どうするという当ても無くひたすら蔵していた本を先般2千冊強処分した。あれで私は吹っ切れた。
本を処分した基準は、今後読むか読まないかとした。それも頁を開くことを自ら封じたので、ひと目判断。それで過去の記憶や思い出に向きがちな意識を「断つ」ことが出来たと思う。その結果の2千冊処分である。それでも約500冊は読むと判断し残った。
他人からすると全くの不用品でも捨てられないのは、物そのものの価値ではなく、まつわる記憶やそれに込めた思いが作用するからだ。それを「断て」ないと捨てられない。今回は本以外も「断つ」ことができた。
コレクションボックスも空になった。
捨てた基準は、使うか に加えて、死後残された人たちに胸を張ってみせられるモノか否か。
胸を張れないモノの数々。
・動かない幾つもの腕時計。
・頂き物も含め十幾つかの額縁及び中身。
・何年か分の干支の置物。
・食した果実の種子を乾燥して貯め続けたコレクション。
・何種類もあったの充電用コンデンサー。AV用コード。
・一時熱中した「小石」コレクション。
・中途半端な模型・ミニカー。
・何時か役に立つはずだった木材?木っ端。
・死ぬまでに使い切れない筆記具のうち書けない物。
・膨大な写真ネガ。カセットテープ。8ミリビデオテープ。
・8ミリフィルム&映写幕。
・年賀状・手紙類。
「断った」ので記念写真は撮らなかった。
元々、変な捨てやすいものばかりだと言われればその通りなのだけど、これだけ断つことができた自分は、「断捨離」の達人ではないかと思う。
若き日に私が記した手紙は『死後、残された人たちに見られたくは無い。照れるじゃないか』即、断捨離と思った。
しかし、現所有者Chiの強い主張により保存となる。確かに所有権はないけど、著作権は私にあるから・・・・。
結局、アルバムと手紙類は保存に回るモノが多い。Chiは「断捨離」が足りないぞ。
気が付いたことがある。
それ相当の対価を払って購入した、お気に入りの衣類を大事にしまっておいて、普段はGAPやユニクロで購入して愛用している。おかしいぞコレは。
着ることにする。
以上、断捨離あれこれ。
私は、引越しのとき、自分が死んだときに残された人が処分に困るようなものは捨てようと思いました。大量の、残された手紙写真、燃えるごみとして出していいのか悩むはずです。
それは、嫌です。こう考えると、あらかたの思い出の品物は捨てられます。
また、自分が生活するうえで、その品物に対して家賃をいくら支払っているかを考えます。マンション55㎡・家賃120000円だとしだとして、0.3c㎡の品物を床に置くとその家賃は?0・3÷55×120000円=655円です。645円の家賃を払ってあげる価値があるかどうか、高すぎると思うなら、処分するか、うまくほかのものと組み合わせて収納して家賃を下げるようにする。このように仮想家賃を考えます。
片づけ物、腰を痛めないように気をつけてください。それと意外と指が疲れます。
我が家は受験グッツを早く処分できること、それが今の願いです。